「コクーニング」なう |
「コクーニング」(cocooning)という言葉が出てきました。
日本語は「繭化現象」と訳されるらしいです。
「家庭、親しい友人私生活、…寛げる場所への回帰」といった意味のようです。
古い言葉(考案された30年ほど前は流行語になったようです)なので、
中島らものこの本でしか見たことのない言葉なのですが、
今見るとちょっと面白いなと思い、久々にブログを書いています。
皆さん、お元気ですか?恐山は今日も雪でしょうか?
なぜ面白いと思ったかというと、最近の流行語に「SNS疲れ」ってありますよね。
自分の発言に必要以上に気を遣ったり、
「いいね!」しないといけない義務感を感じたり、
悪口書いた人を殺さないといけなくなったりするやつです。
これって、コクーニングの進化だと思いませんか。
そもそも、コクーニング自体がヤッピー(yuppie)の進化した行動だそうです。
Yuppie - Wikipedia
1980年~1990年代初頭の日本においてもほぼ同じ状況だったのですが、
ここからが中島らもの視点の鋭いところ。
ただ、日本の場合は皮肉なのだが、消費の最終目標であった「家」、
つまりマユそれ自体の購入が手の届かないところにいってしまったために、
余って行き場をなくしたエネルギーが内へ向かって投入されている。
成熟がもたらした自然な方向転換ではない。
ではアメリカは「自然な方向転換」だったかと問われると、
そうではなさそうですが、少なくとも当時の日本は、らもの言うとおり。
「マユそれ自体の購入」ができないからこそ、さらに物を求める行動に走る。
その「物」は、それまでの外車、ブランドスーツ、宝飾品ではなく、
インテリアだったり、子供の習い事に変わってきたということです。
この傾向は、バブル崩壊以降も続いてきました。
しかし、それは今までと違った形で。(Appleの宣伝のような冗長な言い回し)
内向きにエネルギーを投入することが、
転じて外向きのアピールになってきたということです。
交際費を抑えて、自分や子供が好きな習い事をする。
外食はしないけれども、月に何度かは家で豪華な食事をする。
ブランド品ではなく、欧州発のファストファッションを身に着ける。
合成洗剤と掃除機ではなく、クエン酸とホウキと雑巾で掃除をする。
燃費を抑えた国産のハイブリッドカーに乗る。
いやいや、マイカーなんかは捨ててレンタカー生活をする。
ほら。今はこれらがステータス。
だいぶ前にマスターカードの「Priceless」CFが流行りましたが、
「Priceless」を創造するために、お金に限らず、時間、労力の消費をすることが、
ステータスと受け止められていると思いませんか?
で、ここで私の最近の研究テーマである「ポストソーシャル」を考えてみるわけです。
従前、内向きだった人たちがSNSを使ったことで、どういう状況になったか。
あしあと拒否、バカッター、SNS疲れ、です。
結局、内向きからは脱することができていないくせに、
マユの中に留まることもできなくなっている。
なぜなら、内向きにあらゆるリソースを消費することが今の社会的ステータスだから。
人は「他者との差別化」を図らないと存在意義を見出せない。
つまり、消費することで得られる「物」が何なのかは、大して問題ではなく、
内向きにリソースを消費していることを他者にアピールし、
自分が他者より優れていることを認識できないと、
その消費の対価を得ることができないと考えているわけですよ。
ここまで読んでから、FacebookやTwitterのライムラインを見てみてください。
「なかなか痩せない」
「勉強してます」
「家族団欒が幸せ」
こういうことを写真付で書いている人が増えていませんか?
「高いお金出してジム行って運動してます。」
「資格を取るために平日でも勉強してます。この調子でいくと受かります。」
「いつもと違うご飯をむっちゃお金と時間をかけて作りました。」
愚直に書くと上のようになりますね。
そして、本来は下のように書いた方が事実は伝わりますよね。
「5kg痩せた!」
「資格取った!」
「ごちそうできた!ウマー!」
得られた結果よりも、費やした/費やしているリソースをアピールしている人が多いのが、
なんとなく理解できるのではないかと思います。
マユは身を守るためにあるのではなく、かつ、マユの中からも外を見ている。
マユを作るのは、他者に必要以上に踏み込まれないようにするため。
"Display Windowing"(ショーウィンドウ化)とでも名付けたらいいでしょうか。