2006年 11月 27日
読後感・島崎藤村『藤村詩抄』(岩波文庫) |
僕が文学を好きになったきっかけは草野心平、ともう一人、島崎藤村。
これは断言するに憚らないものであります。
自然主義だ文学界だなんて細かいことは知らない中学生の頃に、
藤村の「初恋」を読んで深く感動した覚えがあります。
当時、暗唱できた唯一の詩じゃないかしら(今はもう無理だが)。
でもねぇ、藤村の小説はあんまり好きじゃないんですよ。
『破戒』も『家』も『夜明け前』も面白いんやけど、やっぱり主題が古いんよね。
名作と呼ばれる小説には二種類あって、
一つは「時代を超えて愛読される小説」で、
もう一つは「その時代に愛読された小説」なんじゃないかと僕は常々思ってます。
前者の例を挙げるとしたら『走れメロス』『羅生門』『こころ』とかでしょう。
海外では『ライ麦畑でつかまえて』『ロミオとジュリエット(小説ではないが)』
『ロビンソンクルーソー』辺りではないでしょうか。
問題は後者。
具体的な著作名を挙げるのは問題がありそうなのでやめときますが、
この分類に藤村の作品は入るんじゃないかと、僕は思うんです。
やっぱり人間の感性っていうのは時代とともに変わっていくわけで、
出版当時は「面白い!新しい!」って評価を集めた作品であったとしても、
それが30年50年100年経って、同じ評価を集められるかというと、難しい。
でもそれは我々読者が悪いわけではないんですよね。
もし僕がジジイになって、孫に『インストール』を読ませたところで、
孫の世代は多分面白いなんて思わないでしょうね。
なんじゃこりゃ、いつの時代の話だーっていう嘲笑はあると思いますが。
僕が今『なんとなく、クリスタル』(ちなみに1980年発表)を読んで、
なんじゃこりゃーって笑けてくるのと同じわけです。
それは時代の流れ、感性の変化ってもんだから仕方ない。
前置きがちょっと長くなりました。
言いたいのは、19-20世紀転換期に生きた作家の作品というのは、
ちょうど今、受容のされ方が変わってきているところだと思うんですね。
パソコンをはじめとするテクノロジーが一切表現されていない書物は、
一般的な目から言ってみれば、今や「時代遅れ」になってる。
それは決して悪いことではないし、再評価されることもあるけれど、
作品の評価ってのは一定ではないということを念頭に置いておかねばならない。
だってさ、今なら恋愛を語るときも家族関係を語るときも仕事を語るときも、
パソコンや携帯電話やメールっていうのは必須のツールでしょ。
「遠く離れたあの人に想いを届けたいけど届けられない」なんてことない。
電報が来て「チチキトク スグカエレ」っていう場面、
電報打ってる時間あるなら携帯にメール送れよ!ってなるわけ。
古い作品を読むといつもそんなことを考えてしまう。
感動することと言えば、人の内面の描写なんかがあって、
「あぁいつの時代の人も考えることは一緒なんやなー」ってくらいしかないのね。
…ということで藤村の小説は退屈だ。
いや、むしろ古い作家の小説はみんな退屈になってきてる。
少なくとも僕はそう思う。
(姪っ子とヤっちゃって、それを小説で告白したのは面白いけどね)
詩歌も小説と同じ。
どんどん新しい技法が生まれて、当たり前の技法になっていく。
どんどん新しい主題が取り入れられ、廃れていく。
でも今、その時代遅れの詩を、いかにもな顔をして愛でてる人がどれだけ多いか。
改めて考え直してみませんか、『サラダ記念日』が本当に面白いのかどうか。
おっと、話が逸れた。
以上を踏まえた上であえて、面白いかどうかは別として、僕は藤村の詩は良いと思う。
なぜか。
藤村の詩を読んでいてすぐに気付くのは「難しくない」ということですな。
現代日本語を理解できない人々はさておいて、
高校で習った古典文法をある程度覚えている人なら誰でもちゃんと読めるし、
熟語も現代日常生活で使っているものが多く、
そうでないものも漢字の意味がわかれば辞書を引かずとも推測できる。
この辺が藤村のいいところであり、今でも通用する理由なんじゃないかと思います。
人の感性は時代によって変化する、ゆえに評価は一定ではないって書きましたが、
感性そのものには不変のものがあると思います。
どんなけ西欧文化が流れ込んできていても、一つの国に生まれ育った人間には、
その国特有の感性というか美意識が刷り込まれているのではないか、と。
「時代を超えて愛読される」に足る条件は、その不変の美意識を的確に突いているか。
それなんじゃないかと思うんですね。
『若菜集』の「おきぬ」の一節を抜き出してみましょう。
芙蓉(ふよう)を前(さき)の身とすれば 泪は秋の花の露
小琴(おごと)を前の身とすれば 愁(うれい)は細き糸の音
いま前の世は鷲の身の 処女にあまる羽翼(つばさ)かな
こういう比喩はいつの時代も使われる。
もちろん現代小説でもよく目にする表現方法の一つでしょ?
で、内容はともかく「美しい文章だ」って多くの日本人は思うはず。
それなんです。
外国の詩を翻訳で読むこと以上に無意味なことはない。
詩の面白さの一つは言葉の流れやから、翻訳じゃ全くわからんよね。
やはり日本人が書いたものを声を出して読まないといけないなぁ。特に詩は。
藤村の詩選を一冊読んで、改めてそう感じましたとさ。
長くなってしまったのでこの辺で。
田原町、じゃなかった俵万智と田中康夫ファンの方がいたら、ごめんなさい。
あと、このブログで言ってることは僕の個人的な意見に過ぎず、
大したリサーチもせずに思いつきを好き勝手書きまくってるだけなので、
間違いもあることを了承して下さいね。念のため。では。
これは断言するに憚らないものであります。
自然主義だ文学界だなんて細かいことは知らない中学生の頃に、
藤村の「初恋」を読んで深く感動した覚えがあります。
当時、暗唱できた唯一の詩じゃないかしら(今はもう無理だが)。
でもねぇ、藤村の小説はあんまり好きじゃないんですよ。
『破戒』も『家』も『夜明け前』も面白いんやけど、やっぱり主題が古いんよね。
名作と呼ばれる小説には二種類あって、
一つは「時代を超えて愛読される小説」で、
もう一つは「その時代に愛読された小説」なんじゃないかと僕は常々思ってます。
前者の例を挙げるとしたら『走れメロス』『羅生門』『こころ』とかでしょう。
海外では『ライ麦畑でつかまえて』『ロミオとジュリエット(小説ではないが)』
『ロビンソンクルーソー』辺りではないでしょうか。
問題は後者。
具体的な著作名を挙げるのは問題がありそうなのでやめときますが、
この分類に藤村の作品は入るんじゃないかと、僕は思うんです。
やっぱり人間の感性っていうのは時代とともに変わっていくわけで、
出版当時は「面白い!新しい!」って評価を集めた作品であったとしても、
それが30年50年100年経って、同じ評価を集められるかというと、難しい。
でもそれは我々読者が悪いわけではないんですよね。
もし僕がジジイになって、孫に『インストール』を読ませたところで、
孫の世代は多分面白いなんて思わないでしょうね。
なんじゃこりゃ、いつの時代の話だーっていう嘲笑はあると思いますが。
僕が今『なんとなく、クリスタル』(ちなみに1980年発表)を読んで、
なんじゃこりゃーって笑けてくるのと同じわけです。
それは時代の流れ、感性の変化ってもんだから仕方ない。
前置きがちょっと長くなりました。
言いたいのは、19-20世紀転換期に生きた作家の作品というのは、
ちょうど今、受容のされ方が変わってきているところだと思うんですね。
パソコンをはじめとするテクノロジーが一切表現されていない書物は、
一般的な目から言ってみれば、今や「時代遅れ」になってる。
それは決して悪いことではないし、再評価されることもあるけれど、
作品の評価ってのは一定ではないということを念頭に置いておかねばならない。
だってさ、今なら恋愛を語るときも家族関係を語るときも仕事を語るときも、
パソコンや携帯電話やメールっていうのは必須のツールでしょ。
「遠く離れたあの人に想いを届けたいけど届けられない」なんてことない。
電報が来て「チチキトク スグカエレ」っていう場面、
電報打ってる時間あるなら携帯にメール送れよ!ってなるわけ。
古い作品を読むといつもそんなことを考えてしまう。
感動することと言えば、人の内面の描写なんかがあって、
「あぁいつの時代の人も考えることは一緒なんやなー」ってくらいしかないのね。
…ということで藤村の小説は退屈だ。
いや、むしろ古い作家の小説はみんな退屈になってきてる。
少なくとも僕はそう思う。
(姪っ子とヤっちゃって、それを小説で告白したのは面白いけどね)
詩歌も小説と同じ。
どんどん新しい技法が生まれて、当たり前の技法になっていく。
どんどん新しい主題が取り入れられ、廃れていく。
でも今、その時代遅れの詩を、いかにもな顔をして愛でてる人がどれだけ多いか。
改めて考え直してみませんか、『サラダ記念日』が本当に面白いのかどうか。
おっと、話が逸れた。
以上を踏まえた上であえて、面白いかどうかは別として、僕は藤村の詩は良いと思う。
なぜか。
藤村の詩を読んでいてすぐに気付くのは「難しくない」ということですな。
現代日本語を理解できない人々はさておいて、
高校で習った古典文法をある程度覚えている人なら誰でもちゃんと読めるし、
熟語も現代日常生活で使っているものが多く、
そうでないものも漢字の意味がわかれば辞書を引かずとも推測できる。
この辺が藤村のいいところであり、今でも通用する理由なんじゃないかと思います。
人の感性は時代によって変化する、ゆえに評価は一定ではないって書きましたが、
感性そのものには不変のものがあると思います。
どんなけ西欧文化が流れ込んできていても、一つの国に生まれ育った人間には、
その国特有の感性というか美意識が刷り込まれているのではないか、と。
「時代を超えて愛読される」に足る条件は、その不変の美意識を的確に突いているか。
それなんじゃないかと思うんですね。
『若菜集』の「おきぬ」の一節を抜き出してみましょう。
芙蓉(ふよう)を前(さき)の身とすれば 泪は秋の花の露
小琴(おごと)を前の身とすれば 愁(うれい)は細き糸の音
いま前の世は鷲の身の 処女にあまる羽翼(つばさ)かな
こういう比喩はいつの時代も使われる。
もちろん現代小説でもよく目にする表現方法の一つでしょ?
で、内容はともかく「美しい文章だ」って多くの日本人は思うはず。
それなんです。
外国の詩を翻訳で読むこと以上に無意味なことはない。
詩の面白さの一つは言葉の流れやから、翻訳じゃ全くわからんよね。
やはり日本人が書いたものを声を出して読まないといけないなぁ。特に詩は。
藤村の詩選を一冊読んで、改めてそう感じましたとさ。
長くなってしまったのでこの辺で。
田原町、じゃなかった俵万智と田中康夫ファンの方がいたら、ごめんなさい。
あと、このブログで言ってることは僕の個人的な意見に過ぎず、
大したリサーチもせずに思いつきを好き勝手書きまくってるだけなので、
間違いもあることを了承して下さいね。念のため。では。
by novaexp
| 2006-11-27 00:32